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旅がもっと面白くなる!イスタンブールの観光地とその歴史を時系列で紹介

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ヨーロッパとアジアが交差するイスタンブール。様々な民族や宗教が入り混じり、独特な文化を生み出してきた。そんなイスタンブールの歴史と人気観光スポットを、時系列で紹介する。

 

昔はキリスト教の国だった

15世紀まで、イスタンブールはキリスト教国家「ビザンツ帝国」の首都だった。当時の地名はコンスタンティノープル。ヨーロッパでも有数の大都市だ。中心地には、ギリシャ正教会の大聖堂「ハギア・ソフィア大聖堂」が建てられた。この巨大な大聖堂こそ、現在の「アヤソフィア」の原型である。

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地下宮殿

007やインフェルノの撮影地として知られる「地下宮殿」は、ビザンツ帝国時代に造られた貯水池だ。実際に宮殿だったわけではないが、暗闇に浮かぶ柱はとても幻想的で、まるで宮殿のような美しさだ。

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ガラタ塔

新市街で一際目立つ「ガラタ塔」。こちらもビザンツ帝国時代に建てられた建物だ。当時この辺りにはジェノヴァ共和国の居留地があり、黒海方面の貿易に力を入れていたジェノヴァ人達によって、監視塔として使われていた。

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その後、オスマン帝国がビザンツ帝国を滅ぼすと、ガラタ塔は時には牢獄として、時には火災の見張台として使われた。

コンスタンティノープルの陥落

大帝国だったビザンツ帝国は、その後のヨーロッパ諸国との争いにより、コンスタンティノープルを除いたほぼ全ての領土を失ってしまう。

15世紀になると、アジア側からイスラム教のオスマン帝国が攻めてくる。オスマン軍を率いるのは、征服王と呼ばれた皇帝メフメト二世。この時21歳だった。

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コンスタンティノープルを包囲した100万人以上のオスマン軍に対し、ビザンツ帝国側の兵力はたったの5000人程度。それでもコンスタンティノス11世の率いるビザンツ軍は、2ヶ月近く抵抗した。長い攻城戦の末、とうとう城が破られると、コンスタンティノスは剣を抜き、城内になだれ込むオスマン軍の中に飛び込み消えていったという。この時48歳だった。

こうしてビザンツ帝国が滅亡すると、ハギア・ソフィア大聖堂はモスクに改装され、内部のモザイク画も塗り潰されてしまう。

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ルメリ・ヒサル

ボスポラス海峡にそびえ立つ巨大な「ルメリ・ヒサル」は、オスマン帝国がつくった要塞だ。ここから大砲を構えて、ボスポラス海峡を通るヨーロッパ船を狙ってた。ボスポラス海峡からルメリ・ヒサルを眺める時は、オスマンの大砲をすり抜けながら黒海を目指すヨーロッパ船の気持ちを想像すると、この巨大な要塞の恐ろしさがよくわかる。

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ボスポラス海峡と金角湾

ヨーロッパとアジアを隔てる「ボスポラス海峡」は、貿易船にとって重要な海路だ。ボスポラス海峡から続く「金角湾」は、ビザンツ帝国に沿って流れる入江だった。

オスマン軍が金角湾に侵入しようにも、海戦となればビザンツ帝国や援軍ヴェネツィア船の方が一枚上手だった。海から侵入するのが難しいと悟ったオスマン軍は、船を陸に引きずり上げて山を越えるというとんでもない荒技で、金角湾に侵入した。こうしてコンスタンティノープルは、オスマン軍に完全に包囲されてしまう。

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旧市街から見たイスタンブールの街並み。目の前の海が金角湾、向こう岸が新市街、右側に広がるのがボスポラス海峡だ。

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テオドシウスの城壁

ヨーロッパ最強の城壁だった「テオドシウスの城壁」。厚さ10m、高さ8mの城壁は、コンスタンティノープルを1000年守り続けた。しかし1453年、難攻不落と言われた城壁はオスマン軍の最新の大砲によって破壊され、コンスタンティノープルは陥落した。

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城壁の一部は今でも残っていて、旧市街の外れで見ることができる。攻城戦では、城壁の堀が敵味方の死体で埋め尽くされたそう。

パノラマ1453

パノラマ1453は、ビザンツ帝国とオスマン帝国の激しい攻城戦の様子を再現したミュージアムだ。歴史的な瞬間をリアルに体験することができる。

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ビザンツ帝国とオスマン帝国の攻城戦については、塩野七生の著書「コンスタンティノープルの陥落」が面白い。この一連の出来事が、物語調に語られていく。序盤の地歴的な説明はちょっと退屈だが、中盤から終盤にかけては、まるで映画のようなリアルな描写と怒涛のような展開で、読むのが止められなくなる。

オスマン帝国の時代

オスマン帝国には独特な風習がたくさんあった。皇帝は誰とも結婚せず、ヨーロッパ中から集められた奴隷たちと子供を作った。皇帝が亡くなると、その子供達の中から次の皇帝が選ばれ、残った子供達は殺された。オスマンの法では兄弟殺しが認められていて、皇帝の座を巡る兄弟同士の殺し合いや、母親による子殺しが絶えなかったのだ。

スレイマニエ・モスク

ヨーロッパに次々と攻め込んだオスマン帝国は、16世紀には現在の中東、ウクライナ、ハンガリー、エジプトまでを国土とする大帝国になる。オスマン帝国を最盛期に導いたのはスレイマン1世。何度も遠征を行い、領土を拡大し続けた皇帝だ。

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イスタンブールの小高い丘の上に立つ「スレイマニエ・モスク」は、そんなスレイマン1世のために建てられた巨大なモスクだ。この時代は、オスマン建築の最盛期でもあった。

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ヒュッレム・スルタン・ハマム

スレイマン1世は、オスマン帝国の歴代皇帝の中で唯一結婚した皇帝としても有名だ。結婚相手はロシアから奴隷として連れてこられた寵妃ロクセラーナ(ヒュッレム・スルタン)。皇帝の寵愛を後ろ盾に、政治や後継者争いにも大きな影響を与えた。

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ヒュッレムによって建てられた「ヒュッレム・スルタン・ハマム」は、現在高級ハマムとして観光客に大人気だ。

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このハマムの人気の裏には、世界中で大ヒットしたトルコ製作のドラマ「Magnificent Century 」の影響がある。主人公はヒュッレム。奴隷としてオスマン帝国に連れてこられたヒュッレムは、宮廷で嫌がらせを受けながらも皇帝スレイマンの寵愛を手に入れ、のし上がっていく。ドラマの撮影にはトプカプ宮殿も使われているので、行く予定があるなら見ておくと面白いかもしれない。動画配信サービスならHuluで視聴可能だ。

オスマン帝国の衰退

スレイマン1世の時に最盛期を迎えたオスマン帝国は、その後徐々に衰退していく。独特な制度が仇となり、皇帝は対外的な政治よりも宮廷内やハレムでの権力争いに翻弄されるようになっていった。そして、徐々にヨーロッパの歴史からも取り残されていく。

トプカプ宮殿とハレム

「トプカプ宮殿」は、オスマン帝国の皇帝の住居として建てられた宮殿だ。宮殿自体は征服王メフメト2世よって建てられ、ハレムが置かれたのはロクセラーナの頃だそう。宮殿内の「ハレム」には、皇帝に奴隷として献上された大勢の女性たちが暮らしていた。ハレムでは、皇帝の愛を勝ち取り自分の子を皇帝にするための陰謀が絶えなかった。

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トプカプ宮殿とハレムの歴史をもっと詳しくしりたい方はこちらをどうぞ。

ブルーモスク

イスタンブールで最も有名なモスク「ブルーモスク」は、17世紀のオスマン帝国の皇帝アフメト1世のために建てられたモスクだ。

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アフメト1世が特に愛した女性は、キョセム・スルタン。ギリシャからやって来た奴隷で、ハレムの女性達の中でも特別美しかった。アフメト1世が若くして亡くなり、キョセムの息子が皇帝になると、実質的にはキョセムが政権を握るようになった。奴隷からオスマン帝国を操るまでに上り詰めたキョセムだったが、その後息子の寵妃との権力争いに敗れ、暗殺された。

トルコ共和国の誕生

20世紀には、オスマン帝国は瀕死の病人と呼ばれるほどに衰退していた。第一次世界大戦に敗北すると、オスマン帝国の支配下だったギリシャが独立し、エーゲ海から攻めてくる。危機を感じた軍人ムスタファ・ケマル・アタテュルクは、軍を率いてギリシャを撤退させ、休戦協定を結んだ。オスマン帝国最後の皇帝メフメト6世は亡命し、これによってオスマン帝国は完全に滅亡した。

トルコ共和国の初代大統領となったアタテュルクは、アラビア文字を廃止、イスラム教を主体とした法を廃止、宗教的な服装を禁止するなど、かなり大胆な政策を次々と行った。現在のトルコがイスラム教の国の中でも比較的旅行しやすいのは、こういった政策の影響によるものが大きいのだろう。

ドルマバフチェ宮殿

近代化により西洋風のデザインが好まれるようになると、オスマン帝国の皇帝は「ドルマバフチェ宮殿」を建設し、トプカプ宮殿から移住した。オスマン帝国のメフメト6世が亡命すると、トルコの初代大統領アタテュルクはドルマバフチェ宮殿のハレムを執務室として使用した。

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アヤソフィア

ビザンツ帝国にとって最も重要な教会だった「ハギア・ソフィア大聖堂」。オスマン帝国時代には、最も重要なモスク「アヤソフィア・ジャーミー」として使われていた。

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オスマン帝国が滅亡すると、初代大統領アタチュルクは、アヤソフィアを博物館として一般公開することに決めた。モザイク画を塗りつぶしていた漆喰は剥がされ、キリストとイスラムの装飾が融合する美しい建物として世界に広く知られるようになった。

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